近代日本では、明治維新以降、欧米に追いつくための国家建設が大きな目標となりました。産業を発展させ、軍事力を強化し、近代的な制度を整えることが、国民にとっても重要な課題と考えられていたのです。
しかし、日露戦争に勝利し、日本が国際社会で大国としての地位を高めると、人々の関心にも変化が生まれます。国家を強くすることだけでなく、政治は誰のためにあるのか、国民はどのような権利を持つべきなのか、人間は何を目標に生きるべきなのかという問いが、社会の前面に浮かび上がってきました。
この変化を象徴するのが、「民本主義」と「教養主義」です。
民本主義は、政治の目的を一般民衆の幸福に置き、民衆の意思を政治に反映させようとする思想でした。一方、教養主義は、国家や社会の要求に自分の人生を従属させるのではなく、学問や文学、哲学などを通じて人格を磨き、自分自身の生き方を考えようとする姿勢でした。
一見すると、民本主義は政治の思想、教養主義は個人の生き方の思想であり、両者は別々のものに見えます。しかし、どちらも国家が人間の生き方を一方的に決める社会から、民衆や個人が自分の意思で社会と人生を形づくる社会への転換に関係していました。
- 1. 国家のための近代化から、人々のための社会へ
- 2. 吉野作造と民本主義――政治は誰のためにあるのか
- 3. 民本主義の広がり――憲法、経済、文明を問い直す
- 4. 「民衆」の発見――政治の外側にいた人々が歴史の主体になる
- 5. 教養主義の誕生――国家よりも、自分の人生を考える
- 6. 哲学・人生論・文化論の広がり――教養が社会に浸透する
- 7. 河合栄治郎と学生の教養――自分の判断基準をどう育てるか
- 8. 自由主義の試練――自由に考えることはなぜ難しいのか
- 9. 民本主義と教養主義の共通点と限界
- 10. 現代社会への示唆――政治に参加することと、自分で考えること
- 11. まとめ――民衆が政治の主体となり、個人が人生の主体となる
1. 国家のための近代化から、人々のための社会へ
日露戦争の勝利がもたらした新しい課題
1904年から1905年にかけての日露戦争での勝利は、日本社会に大きな自信を与えました。明治維新から半世紀足らずの間に、日本は欧米列強と戦争を行い、勝利する国家へと成長したからです。かつてペリーの来航によって開国を迫られた日本が、今度は世界の大国の一員として振る舞うようになったのです。
しかし、国家の発展は、それだけで社会の問題を解決するものではありませんでした。工業化によって経済が成長する一方、労働者の厳しい労働条件や都市の貧困は残り、政治の意思決定に参加できる人々も限られていました。国家の力が増しても、国民一人ひとりの生活や権利が同じように豊かになるとは限らなかったのです。
そこで登場したのが、国家の発展をさらに追求するだけでなく、国家の発展を誰の幸福につなげるのかを問い直す思想でした。
大正デモクラシーと民衆の政治参加
大正期には、政治のあり方を変えようとする運動が広がります。日露戦争後の講和条件への反発、第一次護憲運動、1918年の米騒動、普通選挙を求める運動などを通じて、政治を一部の支配層だけに任せておくことへの不満が表面化しました。
1918年には原敬内閣が成立し、政党政治が新しい段階に入ります。さらに1925年には普通選挙法が成立し、納税額による制限が撤廃され、満25歳以上の男性に選挙権が認められました。ただし、女性には選挙権が認められず、政治参加の平等が実現したわけではありません。
この時代の民主化を考えるうえで重要なのは、選挙制度の変化だけではありません。政治を、国家や支配者のために行うものではなく、社会を構成する人々の生活や幸福のために行うものとして考え直す動きが強まったことです。
国内の民主化と海外への帝国主義的進出という矛盾
大正デモクラシーの時代には、もう一つの重要な矛盾がありました。国内では民衆の権利や政治参加が求められる一方、国外では日本の帝国主義的な進出が進んでいたのです。
日本は1910年に韓国併合を行い、第一次世界大戦に参戦し、中国に対しても強い要求を突きつけました。こうした政策は、朝鮮の三・一独立運動や中国の五・四運動など、現地の人々による抵抗を引き起こしました。
つまり、日本国内で「民衆の意思を政治に反映させるべきだ」という考えが広がっても、それが植民地の人々の権利を尊重することに直結したわけではありません。国内の民主化と国外への支配拡大が同時に進んでいたのです。
この矛盾は、民本主義や教養主義の可能性と限界を理解するうえで欠かせません。自国の民衆を尊重する思想が、国境を越えた人間の平等にまで発展するのか。それとも、自国の利益を優先する考えにとどまるのか。この問いは、現代の民主主義や国際社会にもつながっています。
2. 吉野作造と民本主義――政治は誰のためにあるのか
民本主義が登場した背景
民本主義を代表する思想家が、政治学者の吉野作造です。キリスト教の影響を受け、東京帝国大学で政治学を学んだ吉野は、1916年に雑誌『中央公論』へ発表した「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」によって、広く知られるようになりました。
吉野が直面していた問題は、憲法や議会が存在していても、それだけでは民主的な政治が実現するとは限らないということでした。政治制度が整っていても、実際の政策が一部の特権階級の利益を優先し、一般の人々の意思が反映されないのであれば、政治は十分に民主的とはいえません。
そこで吉野は、政治の目的と政治の決定方法という二つの面から、民本主義を説明しました。
民本主義の二つの原則
吉野の民本主義の中心には、政治の目的が一般民衆の幸福にあること、そして政策の決定が一般民衆の意思に基づくこと、という二つの原則がありました。
第一の原則は、政治が何を目指すべきかという問題です。国家の領土や軍事力を拡大すること、政府の威信を高めること、それ自体が政治の最終目的なのではありません。政治は、社会に暮らす人々の生活を改善し、その幸福を実現するためにあるべきだという考えです。
第二の原則は、政治の意思決定を誰が担うべきかという問題です。人々の幸福を実現するには、政治家や官僚が民衆の生活を一方的に判断するのではなく、民衆自身の意向を政策に反映させなければなりません。そのためには、言論の自由を尊重し、選挙権を拡張し、政治について自由に議論できる環境を整える必要があります。
たとえば、物価が高騰し、食料を買うことさえ難しい家庭が増えているとします。そのとき、政府が国家の威信や財政上の都合だけを優先して対策を決めるなら、民本主義の考え方からは不十分です。生活に困っている人々の声を聞き、その実情を政策に反映させることが求められます。
このように考えると、民本主義は単に「民衆を大切にしよう」という道徳的な呼びかけではありません。政治の目的を定め、民衆の意思を政策に結びつける制度を整えようとする政治思想だったのです。
なぜ「民主主義」ではなく「民本主義」だったのか
吉野は民本主義を、英語のデモクラシーに対応する概念として用いました。ただし、当時の日本では、天皇が統治権を総攬すると定めた大日本帝国憲法のもとで、主権の所在をめぐる議論には強い制約がありました。
そこで吉野は、国家の主権が誰に属するかという問題に正面から踏み込むことを避けながら、政治の目的は民衆の幸福にあり、政治の運営には民衆の意思が反映されるべきだと主張しました。
ここに、民本主義の歴史的な特徴があります。現在の民主主義のように、国民主権を明確な原則として掲げる考え方とは異なり、当時の憲法体制との緊張を抱えながら、民主的な政治を実現しようとしたのです。
そのため、民本主義は当時の制度のなかで政治改革を進める足場となる一方、天皇主権という憲法上の枠組みを根本から変える思想にはなりきれない面も持っていました。歴史的な制約のなかで民主化を推し進めようとしたことと、その制約を完全には乗り越えられなかったことの両方を理解する必要があります。
特権階級と一般民衆の対立
吉野が問題にした「特権階級」には、歴史的な特権を持つ貴族などだけでなく、財力を背景に社会的影響力を持つ資本家も含まれていました。政治が一部の有力者の意向によって動くのではなく、広く一般民衆の利益を考慮すべきだとしたのです。
1918年、吉野は国家主義団体の浪人会と公開の場で対決することになりました。その場には、吉野を支持する学生や労働者、商店員、市民らが集まったと伝えられています。彼らは、吉野の主張に自分たちの政治的な願いを重ね合わせていたのでしょう。
この出来事が象徴するのは、思想が大学や学界の内部にとどまらず、社会の人々が自分たちの願いを言葉にするための道具になったということです。民本主義は、政治学者の理論であると同時に、政治に参加したいと願う人々の希望を表現する言葉でもありました。
3. 民本主義の広がり――憲法、経済、文明を問い直す
美濃部達吉の天皇機関説と立憲政治
民本主義に近い方向を示したのは、政治学だけではありません。憲法学の分野では、美濃部達吉の天皇機関説が重要な役割を果たしました。
天皇機関説とは、天皇を国家そのものと同一視するのではなく、国家という法人の統治機関として位置づける憲法学説です。統治権は国家に属し、天皇は国家の機関として憲法に基づいて統治を行うと考えました。
この考え方は、天皇の権限を無制限なものとみなす見方に歯止めをかけ、国家の統治を法的な枠組みのなかで理解しようとするものでした。政治が特定の個人の意思だけで動くのではなく、憲法や法律に基づいて運営されるべきだという立憲主義の発想と結びついています。
美濃部は、貴族院や枢密院などの制度が国民の意思に基づく政治を制限していることも問題視しました。憲法が存在するという形式だけではなく、実際に民意が政治へ反映されるかどうかが重要だったのです。
しかし、天皇機関説は、天皇の権威を国家主義的に理解する人々から批判され、1935年の天皇機関説事件によって激しい攻撃を受けます。かつて国家公認の有力な憲法学説だった考え方が、政治状況の変化によって排撃されることになりました。
この経緯は、憲法解釈が単なる学問上の議論ではないことを示しています。権力をどのように制限し、誰の意思を政治に反映させるのかという問題は、社会の権力関係そのものに関わっているのです。
河上肇の『貧乏物語』――経済の繁栄は誰を豊かにするのか
経済学の分野では、河上肇の『貧乏物語』が大きな意味を持ちました。1916年に新聞連載が始まり、翌年に単行本として刊行されたこの著作は、経済が発展している社会に、なぜ多くの貧しい人々が存在するのかという問題を正面から取り上げました。
第一次世界大戦は、日本経済に輸出拡大や企業成長の機会をもたらしました。その一方で、物価上昇や生活困窮も深刻になり、経済的繁栄の恩恵が社会全体に均等に行き渡っているわけではないことが明らかになりました。
河上は、貧困を個人の努力不足だけで説明するのではなく、社会全体が取り組むべき問題として捉えました。貧乏を「社会の大病」とみなし、貧困の実態、原因、克服方法を考察したのです。
ただし、当初の河上は、富裕層のぜいたくを抑え、道徳的な改善を促すことに解決の道を求めていました。その後、社会主義への接近を深めるなかで、貧困を生み出す経済構造そのものへの関心を強めていきます。
ここには、民本主義の時代における重要な問題意識があります。政治の目的が民衆の幸福にあるならば、経済の成果もまた、人々の生活を改善する方向に向けられるべきではないか、という問いです。国全体の生産や貿易が拡大しても、働く人々が貧困から抜け出せないのであれば、経済発展の意味そのものが問われます。
この視点は、現代の格差問題や貧困対策、賃金と物価の関係を考える際にも通じます。経済成長率や企業利益だけを見て社会の豊かさを判断することはできません。重要なのは、その成長が誰の生活をどのように変えたのかという点です。
長谷川如是閑の文明批評――「進歩」をそのまま信じない
民本主義の時代には、政治制度の改革だけでなく、文明そのものを批判的に考える思想も登場しました。その代表的な論者の一人が、評論家の長谷川如是閑です。
近代化は、しばしば科学技術の発達、産業の成長、制度の整備といった目に見える変化によって評価されます。しかし、それらが進歩しても、人々が幸福になるとは限りません。便利な機械が増え、経済規模が拡大し、国家の力が強くなったとしても、社会が人間らしいものになっているかどうかは別の問題です。
文明を批評するということは、単に近代化を否定することではありません。近代化によって何が得られ、何が失われたのかを見きわめ、社会の発展を人間の生活という尺度から捉え直すことです。
この考え方は、民本主義の問題意識ともつながっています。政治や経済の制度を整えるだけでなく、それらが人間の生活にどのような意味を持つのかを問う必要があるからです。
4. 「民衆」の発見――政治の外側にいた人々が歴史の主体になる
民衆は統治される対象だけではない
近代国家の建設では、国民はしばしば、教育を受け、税を納め、産業を支え、国家のために働く存在として捉えられてきました。しかし、大正期になると、民衆は単に政策を受け入れる対象ではなく、自らの要求を表明し、社会を変えていく主体として認識されるようになります。
米騒動や労働運動、普通選挙運動などは、その変化を象徴しています。生活の苦しさや政治への不満を、個人の内側に閉じ込めるのではなく、集団的な行動を通じて社会に訴える人々が現れました。
この変化は、思想の担い手にも関係しています。大学教授や知識人が社会を論じるだけでなく、労働者や市民が自分たちの経験をもとに政治を問い、要求を掲げるようになりました。民衆は、知識人によって代弁されるだけの存在ではなく、自分自身の言葉と行動で社会に参加する存在になっていったのです。
もちろん、民衆の要求がいつも一致していたわけではありません。物価の安定を求める人、労働条件の改善を求める人、選挙権の拡大を求める人では、重視する問題が異なります。それでも、多様な要求が社会のなかで表明されること自体が、政治のあり方を変える力になりました。
自由教育運動――学ぶ人自身の主体性を尊重する
民衆の主体性を重視する考え方は、教育の分野にも広がりました。自由教育運動は、教師が知識を一方的に教え込み、生徒がそれを暗記するだけの教育を見直し、子どもの自発性や個性、興味を尊重しようとする動きでした。
従来の教育では、国家が求める規範や知識を身につけさせることが重視される傾向がありました。これに対して自由教育の考え方は、子どもを単なる教育の対象としてではなく、自分で考え、学び、成長する主体として捉え直そうとしました。
この発想は、政治における民本主義と共通しています。政治では、民衆の意思を無視して政策を決めるのではなく、民衆が意思決定に参加することが重視されます。教育では、子どもに知識や規範を押しつけるのではなく、学ぶ本人の自発性を尊重します。
つまり、どちらも、人間を外部から管理されるだけの存在とみなすのではなく、自ら考え、判断し、行動する存在として認めようとする試みでした。
ただし、自由教育が広がったからといって、学校教育全体が国家主義的な性格から解放されたわけではありません。自由な学びを実現しようとする運動と、教育を国家の目的に従わせようとする圧力は、同じ時代のなかで併存していました。
植民地主義への批判と「改造」の機運
社会を根本から変えようとする動きは、1920年前後に「改造」という言葉に象徴されるようになります。政治制度を少しずつ修正するだけでなく、経済、教育、文化、生活様式まで含めて、社会全体を組み替えようとする意識が強まったのです。
第一次世界大戦後には、国際社会でも民族自決や国際協調が議論されました。ロシア革命も、既存の社会秩序を根本から変えようとする思想として、大きな衝撃を与えました。こうした動きは、日本国内の知識人や学生にも影響を及ぼし、社会主義、自由主義、文化主義など、さまざまな立場から社会の再構築が論じられました。
一方で、日本が植民地支配を続けていたという事実は、社会改造の思想にとって大きな課題でした。国内では民衆の権利や自由を求めながら、国外では他の民族の自由や自己決定を制限するのであれば、その民主主義には重大な矛盾が残ります。
民本主義や改造の思想を評価するときには、国内の政治改革にどのような貢献をしたかだけでなく、植民地支配や国際的な権力関係をどこまで問い直したかも考える必要があります。人々の自由や幸福を普遍的な価値として掲げるならば、その対象を自国民だけに限定してよいのかという問題が浮かび上がるのです。
5. 教養主義の誕生――国家よりも、自分の人生を考える
国家への献身から「いかに生きるか」へ
民本主義が政治の目的を問い直したのに対し、教養主義は、人間が何を目標に生きるべきかという問いを前面に押し出しました。
明治期には、国家を発展させることや、国家のために尽くすことが、思想の立場を超えて大きな価値を持っていました。国家建設を進める人々だけでなく、国家のあり方を批判する人々もまた、国事に深く関わることを重要な使命と考える傾向がありました。
しかし、近代化が進むにつれて、国家への献身だけでは人生の意味を十分に説明できないと考える人々が現れます。国家のために生きることと、自分自身の人生を充実させることは、必ずしも同じではありません。
この変化を象徴する出来事として知られるのが、1903年の藤村操の自殺です。第一高等学校の生徒だった藤村は、華厳の滝に身を投げました。その死は、人生の意味を問い詰める青年の姿として受け止められ、哲学や人生論への関心を広げる契機となりました。
もちろん、一人の青年の死を教養主義の誕生だけで説明することはできません。しかし、この出来事が大きな衝撃を与えた背景には、国家や社会のために何をすべきかという問いに加えて、自分は何のために生きるのか、自分の人生をどう理解すればよいのかという問いが、若い世代の切実な問題になっていたことがありました。
教養主義は、こうした人生への問いを、哲学、文学、歴史、芸術などを通じて考えようとする姿勢と結びついていました。
教養とは、知識の量ではなく生き方を考える力
教養という言葉からは、たくさんの本を読み、歴史や哲学に詳しくなり、幅広い知識を身につけることを連想しがちです。しかし、当時の教養主義の重要な特徴は、知識を蓄えること自体を目的としなかった点にあります。
本を読むことや思想を学ぶことは、人生の意味を考え、自分の判断基準をつくり、人格を形成するための営みでした。自分とは異なる時代や社会に生きた人々の考えに触れることで、目の前の常識を絶対視せず、別の生き方や社会のあり方を想像できるようになります。
たとえば、社会全体が特定の政治思想を正しいものとして受け入れているとき、哲学や歴史を学ぶ人は、その考えがどのような前提に立っているのか、過去にはどのような異なる意見があったのかを考えることができます。学問は、正解を覚えるためだけでなく、自分の判断を他人任せにしないためにも役立つのです。
教養主義が重視したのは、こうした内面的な自立でした。社会の動きに無関心になることではなく、社会の動きに振り回されず、自分自身の頭で考える力を身につけようとしたのです。
白樺派と、国家や権威から距離を取る姿勢
文学の世界にも、国家的な価値観や権威から距離を取ろうとする姿勢が見られました。その一例が、武人の理想像として称賛された乃木希典に対する白樺派の人々の批評的な態度です。
白樺派には、人間の個性や人格を尊重し、権威に無条件で従うのではなく、自分自身の価値観を育てようとする傾向がありました。国家に尽くすことや、組織の規律に従うことだけが立派な生き方なのか。個人が自分らしく生きることにも価値があるのではないか。こうした問いが、文学や芸術を通じて表現されていきました。
芥川龍之介の小説「将軍」(1921年)も、軍人である父と文科の学生である息子との価値観の違いを描き、乃木をめぐる評価の相違を通して、世代間の意識の変化を浮かび上がらせています。
教養主義は、国家や社会に対する直接的な政治運動だけでなく、文学作品を読み、人物の生き方を考え、自分の価値観をつくることを通じても広がりました。社会を変えるには制度の改革が必要ですが、人間が何を尊いと考えるかという価値観の変化も、同じように重要だったのです。
6. 哲学・人生論・文化論の広がり――教養が社会に浸透する
哲学ブームと人生論の流行
大正期には、哲学や人生論に対する関心が高まりました。学問は、専門家だけが扱う抽象的な知識ではなく、普通の人々が自分の生き方を考えるための手がかりとしても受け止められるようになったのです。
その背景には、学校教育の拡大がありました。1872年の学制以降、日本では公教育制度が整備され、義務教育の普及に続いて中等教育や高等教育も拡充されていきます。1920年前後には中等・高等教育機関が増設され、大学や専門学校などで学ぶ若者が増えていきました。
教育を受けた知識層が広がると、社会問題を論じる人々の顔ぶれも変化します。従来のように政治や社会を改革する実践家だけでなく、大学で学んだ専門知識をもとに社会を分析する人々が、思想の世界で存在感を増していきました。
さらに、学生という立場は、人生について考え、書物を読み、友人と議論する時間と空間を与えました。生活のために働くことから一時的に距離を取り、人生の目的や社会のあり方を考えることができる。この学生生活そのものが、教養主義を支える社会的な基盤になったのです。
恋愛論も人生を考えるための教養になった
教養主義の広がりは、政治や哲学といった大きなテーマに限られませんでした。恋愛や結婚など、個人の私生活に関する問題も、人生を考えるための重要なテーマとして論じられるようになります。
近代化が進むなかで、家や社会の規範に従うだけでなく、個人の感情や意思を尊重しようとする考え方が広がりました。恋愛や結婚を、家の都合や社会的な義務だけで決めるのではなく、当人の気持ちや人格との関係から捉え直そうとする動きです。
その代表的な著作の一つが、英文学者・厨川白村の『近代の恋愛観』(1922年)です。厨川は、恋愛を単なる本能や形式的な結婚制度の問題として扱うのではなく、精神と身体、自己と他者の関係を含むものとして論じました。恋愛における自己主張と自己放棄の関係などを考察し、近代的な恋愛観を体系化しようとしたのです。
こうした恋愛論が広く読まれたことは、個人の感情や人生の選択を、自分自身の問題として考える文化が育っていたことを示しています。政治制度を変えることだけが近代化なのではありません。人々が愛し方や結婚の意味を考え直すことも、個人の自立をめぐる変化の一部だったのです。
一方で、恋愛や人生論が書物を通じて広まると、教養そのものが一つの流行や知識のジャンルになっていく面も生まれました。自分らしく生きるために始まった思索が、いつしか「教養のある人」と見なされるための知識に変わる可能性もあったのです。
文化史と文化論――文明の進歩だけでは測れない価値
教養主義の広がりは、「文化」という言葉への関心も高めました。ここでいう文化には、二つの重要な意味があります。
一つは、文明開化が重視した欧米の制度や技術、物質的な発展だけでなく、それぞれの社会が育んできた精神的・歴史的な特徴にも目を向けるという意味です。もう一つは、政治だけを社会の中心的な価値とみなさず、芸術や学問、宗教、生活様式などにも独自の価値を認めるという意味です。
こうした関心は、歴史学にも変化をもたらしました。政治上の事件や権力者の動きを追うだけでなく、ある時代の人々が何を考え、どのような生活を送り、どのような文化をつくり出したのかを捉えようとする文化史が発展したのです。
文化史の視点では、歴史は政治的な出来事の連続ではありません。人々の日常生活、思想、芸術、宗教などが複雑に結びつき、時代ごとの特色を形づくっています。政治の制度が変わることと、人々のものの考え方が変わることは、同じではないのです。
土田杏村の文化主義――社会を人間的な視点から組み直す
文化を中心に据えた思想を展開した人物の一人が、土田杏村です。哲学や教育、宗教、経済、芸術など幅広い分野について評論活動を行い、「文化学」の構築を目指しました。
土田が問題にしたのは、政治的・経済的な発展が進んでも、人間の生活全体を統一的に捉える視点が失われてしまうことでした。社会の各分野がそれぞれの目標を追い求めるだけでは、人間らしい生活の全体像が見えなくなる。そこで、文化的な価値の実現を目指す世界観を打ち立てようとしたのです。
第一次世界大戦後の日本は、国際的な地位を高め、経済的な繁栄を経験しました。しかし、その繁栄のなかで、人間が生活の意味や社会全体の方向性を見失っているのではないかという問題意識がありました。
土田は、ロシア革命からも刺激を受け、労働者の知的な向上を重視しました。その考えを実践に移す試みとして、長野県上田の自由大学運動に関わり、地域の若者の教育にも力を注ぎました。学問を大学などの限られた場所に閉じ込めず、地域の人々が学び、考える機会をつくろうとしたのです。
ここには、教養を一部のエリートだけが持つ特権にしてはならないという発想があります。文化や学問を社会に広げることは、単に知識の量を増やすことではなく、人々が自分の生活を考え、社会に参加するための基盤をつくることでもありました。
日本文化論と、国家主義への微妙な抵抗
1930年代になると、日本文化への関心が高まります。満州事変以後、国家主義的な言論が勢いを増し、日本独自の精神や文化を強調する議論が広がりました。
その一方で、日本文化を論じることが、必ずしも国家主義への賛同を意味したわけではありません。歴史や文化を具体的に研究し、現実の日本社会を冷静に理解しようとする姿勢は、国家が掲げる理想像を無批判に受け入れないための手段にもなり得ました。
たとえば、津田左右吉は日本と中国の思想を比較し、日本を東洋文化の唯一の代表者とするような見方に反対しました。長谷川如是閑も、日本社会の性格を「こうあるべきだ」という理想論から決めつけるのではなく、まず実際に「どのようなものであるか」を明らかにしようとしました。
岩波茂雄が1938年に創刊した岩波新書も、当時の言論統制への懸念を示しながら、こうした知的な議論の場を提供しました。
文化への関心は、国家主義に利用されることもあれば、国家主義的な決めつけを相対化することにも使われます。文化を考える際には、何を称賛するために語っているのか、現実を理解するために語っているのかを区別する必要があるのです。
7. 河合栄治郎と学生の教養――自分の判断基準をどう育てるか
社会思想が揺れる時代に、学生は何を学ぶべきか
教養主義を考えるうえで重要な人物が、東京帝国大学教授の河合栄治郎です。河合は労働問題に関心を持ち、自由主義、理想主義、人格主義、社会改良主義の立場から社会を考えました。
1930年代には、マルクス主義に関心を寄せる学生が増える一方、国家主義やファシズムも勢力を強めていました。社会の方向性が激しく揺れ動くなかで、若者はどの思想を信じ、どのように行動すればよいのかという難しい問題に直面していました。
河合は、学生が社会の現実を分析する知識を身につけるだけでは十分ではないと考えました。社会情勢が大きく変わったときにも、自分の判断を保ち、何が正しいのかを考え続けられる人格を育てる必要があるとしたのです。
この考え方は、教養主義が重視した内面的な自立をよく示しています。社会の問題を鋭く批判できても、自分自身の判断基準が十分に育っていなければ、時代の変化に押し流されてしまうかもしれません。知識や分析力に加えて、自分が何を大切にし、どのような責任を引き受けるのかを考える力が必要だということです。
「読むこと、語ること、問うこと」の意味
河合は、学生に向けた文章で、読書や対話を通じて思想を深めること、優れた思想家の考えをたどること、よい師や友人を持つことの大切さを説きました。
学生は、社会人として働く人々とは異なり、学問や思想にまとまった時間を使える立場にあります。だからこそ、その時間を目先の流行や焦りに費やすのではなく、自分の人格を育てるために活用すべきだというのです。
河合が懸念したのは、時代の変化に焦り、ある思想を急いで信じ込んだり、逆に失望して何も信じられなくなったりすることでした。彼は、学生が自分の考えを確立するために、幅広い書物を読み、他者と議論し、異なる思想を比較することを重視しました。
この考え方は、現代の学びにも通じます。インターネット上では、政治や社会に関する意見が大量に流通し、強い言葉や単純な説明が注目を集めやすくなっています。そのような環境では、情報を素早く受け取る能力だけでなく、情報の根拠を確かめ、異なる立場を比較し、自分の判断を修正する力が重要になります。
教養とは、何でも知っていることではありません。知らないことを認め、他人の考えを聞き、必要なら自分の意見を変えられることも、教養の重要な一部なのです。
岩波文庫と「知識を特権階級から取り戻す」という発想
教養主義の広がりを支えたものに、出版文化の発展があります。1927年に刊行が始まった岩波文庫は、古典的な価値を持つ書物を比較的手に取りやすい形式で提供し、知識や美を特権階級の独占から取り戻すことを目指しました。
古典を読むことは、過去の偉人の言葉を暗記することとは違います。時代や社会が異なる人々の思想に触れ、自分の常識を相対化することです。現在の社会では当然と思われている価値観も、歴史的に形成されたものかもしれません。古典との対話は、今の社会を唯一の可能性だと思い込まないための助けになります。
河合栄治郎も、学生向けの著作や読書案内を通じて、哲学、倫理学、歴史、文学、宗教、科学など幅広い分野の書物を読むことを勧めました。特定の分野の知識だけでなく、多角的に世界を見るための基礎を身につけることが重視されたのです。
ただし、教養主義には弱点もありました。推奨された本を読んでいるかどうかが、教養の有無を判断する基準のように扱われることもあったからです。本来、自由な思考を支えるはずの教養が、特定の書物を知っている人と知らない人を分ける新たな境界線になってしまう可能性もありました。
8. 自由主義の試練――自由に考えることはなぜ難しいのか
自由主義が主要な争点になるまで
自由主義という言葉は、明治期にも使われていました。しかし、長い間、思想界の中心的なテーマとして定着していたわけではありません。自由を重視する思想家がいても、自分を自由主義者と名乗り、自由主義そのものを体系的に論じる人は限られていました。
ところが1930年代半ばになると、自由主義は重要な争点になります。その背景には、マルクス主義の側からの批判と、国家主義や軍部の側からの攻撃がありました。自由主義は、社会の根本的な変革を求める立場からは不徹底だと批判される一方、国家の統制を強めようとする立場からは、国家の結束を弱める考え方として排撃されました。
つまり、異なる立場の人々が、それぞれの理由から自由主義を問題視するようになったのです。
自由主義には、個人の自由を尊重し、権力による思想の強制を避け、異なる意見が共存できる社会をつくろうとする考え方があります。しかし、社会が危機に直面しているときには、自由な議論や意見の違いが、かえって社会を弱くするものだと見なされることがあります。
そのため、自由主義を守るには、自由が大切だと唱えるだけでは足りません。反対意見を認めること、権力を制限すること、自由な言論を支える制度を維持することが必要になります。
天皇機関説事件と二・二六事件が示した転換
1935年の天皇機関説事件では、美濃部達吉の憲法学説が国家主義的な立場から攻撃され、政府もその圧力のもとで同説を排撃する方向へ動きました。翌1936年には二・二六事件が発生し、政治と軍部をめぐる緊張は一段と深まりました。
この時期には、自由な思想や学問を支える環境が急速に厳しくなっていきます。思想や学説が、論争によって検討されるのではなく、政治的な圧力によって排除される危険が高まったのです。
1930年代後半になると、自由主義を正面から論じる言論は急速に後退していきました。河合栄治郎もファシズム批判を展開したために攻撃を受け、著作の発禁処分や大学での処分、刑事裁判などに直面しました。
この経緯は、教養主義と自由主義が深く結びついていたことを示しています。自分で考えるためには、異なる意見に触れることが必要です。しかし、社会が特定の思想だけを正しいものとして認め、異論を許さなくなれば、読書や学問によって育てられるはずの自立した判断力も損なわれてしまいます。
自由主義は、何でも好きにしてよいという考え方ではありません。異なる価値観を持つ人々が、互いの自由を認めながら社会をつくるための原則です。そして教養は、そのような社会を支えるために、自分とは異なる考え方を理解し、判断を深める力を育てようとするものだったのです。
9. 民本主義と教養主義の共通点と限界
政治の民主化と、個人の自立
民本主義と教養主義は、対象とする領域が異なります。民本主義は、政治の目的を民衆の幸福に置き、政策決定に民衆の意思を反映させようとしました。教養主義は、国家や社会の要求にただ従うのではなく、学問や文化を通じて自分の生き方を考え、人格を形成することを重視しました。
しかし、両者には共通する方向性があります。それは、人間を他者から一方的に支配される存在としてではなく、自分の意思で社会や人生に関わる主体として捉え直そうとしたことです。
民本主義にとって、民衆の意思を無視した政治は問題でした。教養主義にとって、個人が自分の人生を考える機会を持てず、国家や組織の要求に従うだけの生き方は不十分でした。どちらも、人間の意思や判断を尊重しようとする思想だったといえます。
この意味で、民本主義は社会制度の側から、教養主義は個人の内面の側から、人間の自立を目指したと考えられます。民主的な制度が整っていても、人々が自分で考え、判断する力を持たなければ、政治は十分に機能しません。反対に、個人が深い教養を身につけていても、自由に発言したり政治に参加したりする制度がなければ、その力を社会に生かすことは難しくなります。
民主主義は自国民だけのものではない
一方で、民本主義や教養主義が広がった時代の日本には、重大な限界がありました。国内では政治参加や個人の自由が論じられたものの、女性の政治的権利は制限され、植民地の人々の自己決定も十分に尊重されていませんでした。
民衆の幸福を政治の目的とするなら、誰がその「民衆」に含まれるのかという問いが避けられません。教養によって人間の尊厳や自由を重視するのであれば、その尊重は自分と異なる民族や文化を持つ人々にも及ぶべきではないでしょうか。
思想が掲げる理想と、その思想が実際に適用される範囲との間に隔たりがあるとき、その隔たりを問い直すことが必要です。民本主義や教養主義を歴史的に評価する際にも、当時の社会に新しい可能性を開いた点だけでなく、その可能性がどこまで広がり、どこで制限されたのかを見なければなりません。
教養は現実から逃れるためのものではない
教養主義には、政治や社会の問題から距離を取り、個人の内面や文化の世界に閉じこもってしまう危険もあります。社会の現実が厳しいときに、古典を読んで自分の心を豊かにすることは大切です。しかし、それだけで貧困や差別、権力による抑圧が解決するわけではありません。
逆に、社会を変えることばかりを急ぐあまり、個人が自分の価値観を深める時間を軽視することにも問題があります。自分の判断基準が十分に育っていなければ、強い主張や時代の空気に流されてしまう可能性があるからです。
民本主義と教養主義を結びつけて考えると、社会を変えることと、自分を育てることは対立するものではありません。政治や制度の改革と、学問や文化を通じた人格形成の両方が必要なのです。
10. 現代社会への示唆――政治に参加することと、自分で考えること
民本主義から考える、政治への参加
現在の日本では、選挙権が男女に認められ、憲法によって基本的人権が保障されています。大正期の民本主義が求めた政治参加は、制度の面では大きく前進しました。
しかし、選挙制度が整っていることと、民衆の意思が十分に政治へ反映されていることは同じではありません。政治への関心が薄れたり、政策の決定過程が見えにくくなったりすれば、人々は自分たちの生活に関わる問題について、意思を表明する機会を十分に持てなくなる可能性があります。
民本主義の考え方は、政治を政治家だけの仕事とみなすのではなく、生活する人々が自分たちの社会のあり方を考える営みとして捉えることを促します。物価、賃金、医療、介護、教育、住宅など、日々の暮らしに関わる問題を政治と結びつけ、政策の目的や決定方法を問い直すことが重要です。
教養主義から考える、情報社会での判断力
現代は、情報を得ること自体は以前より容易になりました。ニュースや動画、SNSを通じて、多様な意見や知識に触れることができます。しかし、情報が多いことと、物事を深く理解できることは同じではありません。
短い文章や刺激的な意見だけを追いかけていると、複雑な問題を単純な善悪の対立に置き換えてしまうことがあります。自分と似た意見ばかりに接していれば、異なる立場の人が何を考えているのかを理解する機会も失われます。
教養主義が重視した読書や対話、思想の比較は、こうした問題を考えるうえでも意味を持ちます。歴史を学べば、現在の制度がどのような経緯で成立したのかを理解できます。哲学を学べば、正義や自由、幸福といった概念を問い直せます。文学を読めば、自分とは異なる境遇の人々の感情や経験を想像できます。
教養とは、情報を大量に蓄えることではなく、情報を判断し、他者を理解し、自分の意見を深めるための基盤なのです。
社会の発展を、人間の幸福から評価する
民本主義と教養主義が共有していたもう一つの視点は、国家や経済の発展を、それ自体で最終的な価値としないことです。
経済成長や技術革新は、社会を豊かにする重要な手段です。しかし、成長によって生活が不安定になる人が増えたり、効率化によって人間の尊厳が軽視されたりするなら、社会の発展のあり方を見直す必要があります。
新しい技術が導入されたときにも、単に生産性が上がったかどうかだけでなく、それによって誰の生活が改善し、誰が不利益を受け、どのような価値が守られるべきなのかを考えなければなりません。政治、経済、教育、文化のそれぞれを、人間の幸福や自立との関係から評価することが求められます。
この問いは、大正期の思想家たちが向き合った問題とつながっています。国家が強くなること、経済が成長すること、社会が便利になることは、いずれも重要です。しかし、それらが人間の生活にどのような意味を持つのかを問い続けることなしに、社会の発展を本当に評価することはできません。
11. まとめ――民衆が政治の主体となり、個人が人生の主体となる
民本主義と教養主義は、明治期の国家建設を経て、日本社会が新たな段階に進むなかで生まれた思想でした。
吉野作造の民本主義は、政治の目的を一般民衆の幸福に置き、民衆の意思を政策決定に反映させることを求めました。美濃部達吉の天皇機関説や河上肇の『貧乏物語』も、政治や経済の制度を、権力や国家の都合だけでなく、社会全体の利益や人々の生活という観点から問い直す動きに関係していました。
一方、教養主義は、国家への献身だけを人生の目標とする考え方から距離を取り、哲学、文学、歴史、芸術などを通じて「いかに生きるか」を考えようとしました。学生の増加や出版文化の発展、自由教育運動、文化史や文化論への関心は、その広がりを支えました。
ただし、これらの思想が広がった時代には、国内の民主化と植民地支配が併存し、1930年代には自由主義や学問の自由も厳しい圧力にさらされました。新しい思想が登場したからといって、自由や平等が自動的に実現するわけではなかったのです。
それでも、民本主義と教養主義が示した問題意識は、現代にも重要な意味を持っています。政治は誰のためにあるのか。経済の繁栄は誰を豊かにするのか。私たちは社会の常識をそのまま受け入れるのではなく、自分自身で考え、判断できているのか。
民本主義が「民衆を政治の主体にすること」を問い、教養主義が「個人を人生の主体にすること」を問いかけたと捉えると、両者の関係が見えてきます。民主的な社会をつくることと、自分の頭で考えられる人間を育てること。その二つを結びつけるところに、この時代の思想が残した大きな意義があります。
